僕が探したのはイヴではなく、たったひとりの君

 男の指が前立てに触れる。胸元が開かれバスローブが肩からストンと床に落ちた。晒された白い背中を撫でるひやりとした空気に、ランガは微かに震えた。エアコンの設定温度は何度なんだろう。

「寒い? 大丈夫。すぐに熱くなる」

 男はバスローブを脱ぎベッドの上にバサッと投げた。

 ランガはさっさと全裸になった男の発達した三角筋から大胸筋、腹筋へのラインを視線でなぞった。見事な逆三角形の体型だ。彼は着痩せするタイプだと思う。いつも筋肉を晒しているジョーとは違い裸身を目にしてはじめて、その見事に鍛え抜かれた肉体を意識させられることになる。

 無意識に指を伸ばしていた。手のひらを肩から二の腕まで滑らせた。その硬い質感にランガは唇を寄せる。ボディーソープの残り香をほのかに感じる。舌を這わせた。

「どうしたの? ランガくん」

「愛抱夢の味がする」

「可愛いこと言うね」

 笑いを含んだ声。顎をつかまれ唇が重なった。

 角度をずらしながら強く吸われる。やがて唇を割って柔らかい舌が滑り込み、歯列をノックしさらに奥へと進んだ。あたたかい舌と舌が絡み合う。

 きつく抱きしめられれば愛抱夢の体臭が立ち上る。ドキドキしてどこか安心する匂いだ。


 ベッドに横たえられ胸から脇腹を男の手のひらと唇が這っていく。

 敏感な場所を集中的に愛撫されているわけではないのに、散漫な痺れが肌表面を断続的に走った。

 唇から漏れる吐息が熱を帯び小さな喘ぎが混ざり始めたころ、下着を剥ぎ取られうつぶせにさせられた。

 尻の割れ目にそって指が滑り込んでくる。入口、そして内側へと塗り込まれるローションの冷たい感触に少し身を固くする。愛抱夢はそんなランガの背中に胸を重ね、もう片方の手を胸の下に滑り込ませ緊張をほぐすように、緩慢な愛撫を続けた。

 その間、埋め込んだ指の本数を増やしながら自らの通り道をほぐしている。時間をかけ慎重に。自分を受け入れたときに傷をつけないように。

 これは、いつもの欠かせない儀式。それでも、まだ挿入されての快感を得られたことはなかった。はるかに痛みの方が大きい。いつになったら慣れるのだろう。

 彼は、ランガの苦痛が大きいと判断すればすぐに行為を中断してしまう。焦らなくていい。待つと、何年でも待つと言った。でも、と反論しようとすれば、僕は八年もイヴを探していた。それを思えば、どうってことはない。君はこうして僕の腕の中にいる。それで十分だと。


 愛抱夢に愛撫されるのは好きだ。彼の手で導かれる射精で得られる快感は、高く決めたエアに似ている。ふわりと宙を飛び体を回転させたとき開ける視界。鳥になって風を切り飛翔するイメージ。マスターベーションとは全然違う爽快感。

 いつも自分だけ気持ちよくしてもらっているような気がして、申し訳なく感じていた。だから彼の要求にはなるべく応えたかった。


 指が引き抜かれ、体に密着していた熱が離れた。ピリッと袋を破る音が聞こえた。コンドームをつけているんだとわかった。これもいつもの手順だ。

 けれど、そのあと体をひっくり返されて「え?」と何度も瞬きをして真上から見下ろす男の顔を見た。

 愛抱夢は悪戯っ子のような笑みを浮かべ「今日はこっちからしてみようか」と言った。

 いつも後ろから抱かれていた。その方が体位的に無理なく負担は少ないと言っていたはずなのだが。

「どうして?」

「君が僕に犯されているとき、どんな顔しているのか見たくなった。いいよね?」

 カーッと顔が熱くなる。

「い、や、だ。悪趣味、変態、ドスケベ、えーとそれから、エロオヤジ」

 とりあえず思いつくだけの日本語で悪態をついてみた。使い方は間違っていないと思う。

「他は許容できてもオヤジは傷つくなぁ。悪い子だ。悪い子に拒否権はないよ」

 彼は楽しそうな笑顔でランガの膝の裏を掴み肩にかけた。腰が浮いた次の瞬間、下肢を鋭い痛みが襲った。

「うっ……」

 思わず声が出て男の腕を強く掴んだ。

 彼は一旦動きを止め「力を抜いて」と耳元で囁いた。

 そして軽く唇を合わせ少しずつ体重をかけてきた。異物を押し戻そうとするような抵抗に逆らいながら彼は徐々に腰を進めた。深くなった結合の刺激に反らせた喉から、抑えきれない小さな呻きが漏れた。無意識に逃れようとする体を引き戻し愛抱夢は緩やかに腰を動かしていく。


 辛くないと言えば嘘になる。

 前回、無理をさせたくないと愛抱夢は行為を中断してしまった。焦る必要はないと。今だってランガの苦痛が強いと判断すれば、彼はすぐに体を外してしまうだろう。けれど、それはもう嫌だった。


 愛抱夢があるポイントを掠めたとき、信じられない感覚に襲われ高い悲鳴が喉から迸った。一瞬、彼は動きを止めたけれど、すぐに何もなかったように律動を再開する。強く弱く速く緩やかにとリズムをつけながら。

 その度に断続的に快感の波が押し寄せる。それは徐々にランガの中で昂ぶりを増していった。


 深々と貫かれ、内臓をえぐられ自我もろとも粉々に砕かれていく。一方的に四肢を開かれ、為す術もなく陵辱されている。自分でコントロールすることのできない受動的な快楽に呑み込まれつつあるのだという不安。

 この行為の先に、あの空間が広がっているような気がした。

 何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。ただ真っ白な虚無の中へとひとり放り出される。

 それはランガにとって絶望的な孤独、あるいは緩慢な死のイメージだった。

 ——怖い。

 耐え難い恐怖に囚われ、ランガはわずかに残った意識を振り絞って目をうっすらと開いた。

 覆い被さる愛抱夢の顔がぼんやりと見えた。ランガを犯しながらも見守るように見つめていた。

 目が合った彼は察したのか微笑んでランガの背中の下に腕を差し入れた。強く抱き締めながら汗で濡れた肌を密着させる。

「大丈夫だ。僕はここにいる」

 そう耳元で低く囁かれ、ランガは安堵して目を閉じた。

 愛抱夢は再び腰を動かし始める。この男の腕に抱かれ守られているのだという安心感。絶頂へ向かう大きなうねりの中でランガは愛抱夢にしがみつき身を委ねた。


 全身を痙攣させ忘我へと至る白く霞んでいく意識の中。

 閉じた瞼のはるかかなた。

 遠くで烟る風景の中に、大切な〈何か〉があるような気がした。


 ぼやけた視界の中に、宙に浮く深紅の瞳を捉えた。薄明かりの中でもとても綺麗な色だと思う。その瞳の持ち主はどこか複雑な表情をしていた。

「愛抱夢? そんな顔して、どうしたの?」

 ぼんやりとした口調でランガは訊いた。

「大丈夫?」

 言いながら愛抱夢はランガのふわふわの髪をくしゃくしゃと指で掻き混ぜた。

「何が?」

 ランガは髪を乱す男の手を制止しようと腕を持ち上げた。そのとき覚えた違和感に自分の手をじっと見つめた。指が小刻みに震えている。手を握ったり開いたりしてみるが、なんかうまくいかない。

「覚えていないのかい? 君は気を失っていたんだ。短い時間だけど」

 え? 何となく思い出してきた。そうだ、とても妙な感じだった。真っ白な空間の中へとたったひとり放り出されたような感覚。上も下もわからないホワイトアウトのようだった。コントロールを失い大きな雪崩に巻き込まれていく。必死で、指を伸ばし掴めるものを求めた。けれど何もなかった。どこへ連れて行かれるのかわからない。誰もいない。ただ怖かった。でも、この男に強く抱きしめられているのだと感じたとき、とても安心したことを覚えている。だからほっとして力を抜いた。そして自分の肉体の主導権を完全に手放していた。

 それからの記憶がない。

 上半身を起こそうとしたとき、腰に鈍痛が走った。ランガは顔をしかめた。

「無理に動いては駄目だよ」

 ランガの背中に男の手が、すっとまわされた。彼は丁寧にブランケットでランガをくるみながら抱き起した。

 男の裸の胸に片頬を押し付け目を閉じた。汗ばんでいたはずの肌が、もうサラサラと乾いている。エアコンが強く効いたこの部屋は肌寒いくらいだ。

「痛む?」

「少し」

「出血はなかったから心配ないよ」

「見たの?」

「身体を拭かせてもらったから」

 ランガは眉を寄せた。見られたことも恥ずかしいが、その間、目が覚めなかったことに愕然とする。でも、それより今はこの奇妙な身体感覚だ。

「なんか変なんだけど。震えが止まらない。歯が、こうガチガチしている」

 ランガは両腕を掴んで自分を抱き締めた。

 頭の上で、ふぅーと息を吐く音が聞こえた。彼はランガの髪を指でいじりながら言う。

「君は自分がどうなったかわかっている?」

「気を失っていたって、さっきあなたが」

「そうなんだけど、どうして気を失ったか、その理由だよ」

 ランガはかぶりを振った。

「君は僕と一緒にいったんだ」

 いったとかいくとかいう日本語、なんとなく使い方を理解したのはこの男と、こんな関係になってからだった。

「俺、いったの?」

「そうだよ。僕は普通に射精でいったけど」彼は、すっとランガの尻の割れ目に沿って指を滑らせる。身体がピクリと反応した。

「君は射精でいったんじゃない。ここでいったんだ。つまりバックでいかされた」

「そんなこと何でわかるの?」

「そりゃ、僕はずっと君を見ていたからね」

 抱かれながら愛抱夢に言われた言葉を思い出した。

 ——君が僕に犯されているとき、どんな顔しているのか見たくなった。

 カーッと頬が熱くなる。

 俺がわけわからなくなっていたとき、一方的に顔を見られていたのか。

 チラリと男の顔を見れば、嬉しそうに目を細めていた。口もとには浮かぶのは余裕の笑みだ。

 羞恥を通り越して、だんだん腹が立ってきた。腹立ちついでに、そもそも何でいつも俺が挿れられる方なんだ? という根本的な疑問に辿り着いた。それって不公平だと思う。

 そうだ、たまには俺に挿させてくれたっていいじゃないか。何故、今まで気がつかなかったんだろう。

「ねえ愛抱夢、たまには俺にも……」

 そこから続く言葉を愛抱夢はキスをすることで封じた。ランガが言おうとしたことを察したのかもしれない。

 愛抱夢は唇を離して「とても綺麗だったよ」と耳元に低く囁いた。その声だけで、ゾクゾクとしたものが背を駆け上がっていく。

 ブランケットの内側へと彼の手のひらが滑り込み素肌に触れた。ランガは息を詰めピクリと全身を震わせた。

 その様子に愛抱夢は狡い大人の笑みを浮かべた。

「一度、こんなふうに達した身体は敏感になるんだよ。あともう一回くらい、いかされてみる?」

 愛抱夢の五本の指が脇腹を撫で、胸を這い回り、やがて指の腹が乳首を捉えた。潰すようにゆっくりと捏ねはじめる。痺れるような快感が走る。声が漏れないように唇を噛んで耐えた。

 ふと、小さな喘ぎが聞こえた。あれ? そっか、これは自分の声だ。

 唇が重なりベッドへ押し倒された。男の重みを全身で感じ、ランガは愛抱夢の首に腕を絡めた。

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