イヴを探して

 スケジュールの確認、および代理出席した地元イベント、騒がしくなってきた高野議員周辺に関する報告の間も、主人の視線がディスプレイから外されることはなかった。怒りを買う可能性を想定しつつ、それとなく確認をしてみるが説明した内容は全て頭に入っているようで、忠の話を聞いていなかったわけではない。

 主人である愛之介が見つめるディスプレイに映し出されているのはクレイジーロック。S会場だ。

 多忙を極める彼は、愛抱夢としてSに顔を出すことは滅多にない。だが現場にいなくてもリアルタイム中継、もしくは録画された映像のチェックは欠かさなかった。

 Sのチェックは日課だが、それとは別に、ある少年の映像を繰り返し鑑賞していることを忠は知っていた。むしろ、そちらが主で、Sのチェックは今やおまけ程度の意味合いでしかない。

 近々、開催予定のトーナメント。これも、この少年と滑るだけが目的なのだが、それを最大限に盛り上げるための演出がされるだろう。その少年と愛抱夢のビーフ以外は全て茶番だ。なのに何も知らない多くのスケーターたちが各々の滑る理由や意味を胸に、エントリーしてくるだろう。


 少年のSネームはスノー。本名を馳河ランガと言う。難攻不落と思われた愛抱夢のラブハッグを破った少年だった。


「僕だけのイヴを探さなくては」

 ぽつりと愛之介が漏らした独り言を忠は耳にする。あまり気に留めなかった。もともとロマンティストを通り越して、エキセントリックな傾向が強い少年だ。当時から彼はスケーター仲間と遊ぶとき本名を隠し「アダム」と名乗っている。アダムといえばイヴ。恋人でも欲しい年頃なのだろうと軽く考えていた。

 むしろ、そうであってくれたのなら、どれだけ気が楽だったか。


 愛抱夢が廃鉱山にある危険なコースでスケーターを次々に潰している。その噂を忠が耳にしたのは愛抱夢こと愛之介がアメリカ留学へ発つ少し前のことだった。

 もともと、怪我人が出るたびに表沙汰にならないよう神道家の息がかかった病院で治療を受けさせ、示談交渉の上、事故そのものを握りつぶしていた。その事故が、ここのところ頻発している。嫌な感じがした。

 当時、愛之介と忠の関係は壊れ、ふたりの間には修復不可能な深い亀裂が入っていた。原因は自分の裏切りにあると忠は考えていた。当然、忠が彼に助言することはもちろん、彼の真意を正すことも不可能だった。

 都度、最善と思われる事後処理を忠は淡々とこなしていく。あとは、ただ見守ることしかできなかった。

 彼が潰してきたスケーターとイヴとを関連づけることはなかった。


 諸々の疑念が晴れないまま愛之介はアメリカへと発った。忠は彼の父親である愛一郎の秘書として慌ただしく、ある意味平穏な毎日を送っていた。

 そうこうしているうちに留学を終えた愛之介が帰国する。それからほどなくして愛一郎が急逝した。彼は若くして父親の地盤を引き継ぎ政治家の道を歩むことになる。忠は、そのまま愛之介の秘書として仕えることになった。

 忠に神道家から離れるという選択肢がなかったわけではない。それでも、まだ新米政治家の愛之介には愛一郎のもとで秘書としての経験を積んだ自分が必要だと判断した。彼もそれを望んだ。その忠を新しい主人は「犬」と呼び蔑んだ。

 辛く当たられることは覚悟していた。それが一生受け続けるべき裏切りの代償ならば甘んじて受けようと決めていた。


 神道家の財産を相続すると同時に父親の支配から解放された愛之介が愛抱夢として真っ先にしたことは、Sの創設だった。

 廃鉱山を利用した大規模な違法スケートレース場S。愛抱夢の大胆な構想のもと、Sの構築から運営ほぼすべてを忠は任された。

 S本来の目的を忠が知ったのは開設されてしばらくしてからだった。

 愛抱夢はあるスケーターに注目した。

「イヴかもしれない」

 そう彼は目を輝かせ、ビーフの招待状をそのスケーターに渡すよう忠に命じる。

「さあ、愛の儀式を始めようか」

 ビーフに応じたそのスケーターは、クラッシュして大怪我を負った。

 深紅の瞳に浮かぶのはありありとした落胆。

「君はイヴではなかった」

 一転して冷たく言い放つ愛抱夢に、背筋が凍った。

 そこで、ようやく忠はイヴが恋人などという単純なものではないと思い知る。同時にSそのものがイヴ探しのための大掛かりな舞台装置であったことを理解する。

 それからも愛抱夢は何人もの有望なスケーターに愛を語りビーフを持ちかけ、結果的に対戦相手を再起不能にしてきた。

 愛抱夢は、いつしか”愛のマタドール”とS参加者から呼ばれるようになる。


 彼の求めるイヴの条件とは、どのようなものなのだろうか。イヴ候補と思しきスケーターが愛抱夢に付いていけずクラッシュすれば、彼は即座に興味を失っている。そのことから愛抱夢と同等以上の滑りの才能が必須条件なのは間違いない。

 そんなスケーターがおいそれと現れるとは考えられなかった。はたから見れば、ただスケーターを潰しているようにしか見えないだろう。

 イヴを探して繰り返される期待と失望。それは愛抱夢の精神を徐々に蝕んでいった。その一方、政治家である神道愛之介は順風満帆、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 止めなくてはいけないと思った。このまま突き進めば、いつか握り潰せないほどの大きな事件になる。そうなれば政治家生命どころか、愛之介の人生そのものが終わる。

 だが、どうやって?

 一般的な倫理、道徳、正義などSでは通用しない。一般社会のそれを基準にしてしまえばSは成り立たない。参加者はそのことに納得している。たとえ子供であったとしてもだ。

 いずれにしろ、心を閉ざした愛之介に忠の声は届かないだろう。

 忠は、愛抱夢の動向を注視しながら、最善の解決策を模索し続けた。しかし何も見つけることはできなかった。


 やがて愛抱夢は申し込まれるビーフを断り続け、Sへは顔を出さなくなっていった。かといって諦めたわけではないのだろう。Sのチェックは欠かしていなかったのだから。おそらく失望が積み重なるたびにイヴ候補に求める条件が厳しくなり、彼の眼鏡にかなうスケーターが現れなかっただけの話だ。

 それでも愛抱夢はひたすら待ち続けていた。この世にたったひとりだけいるはずのイヴを。


 そして主人は、待ち望んだイヴである少年スノーをついに見つけてしまう。


 愛之介がスケートをするスノーをはじめて見たのは、対シャドウの中継だった。その滑りを見て愛之介は彼に興味を持った。いや、興味なんて生やさしいものではない。ゴール直前、爆竹の火花に彩られながら宙をふわりと舞った、あの一瞬で少年に魅入られてしまったのだ。

 これは運命だ、と誰に聞かせるでもなく愛之介は目を細めうっとりと呟いた。

 あれから深紅の瞳に映すのはスノーだけになった。愛之介は己の行動原理の主軸を彼に固定した。

 そこからスノーを手に入れるためだけの行動を開始する。

 とはいえ実際スノーをどうしたいのか具体的に何をするつもりなのか、は忠にも想像できなかった。

 そんな愛抱夢の本来の意図を知らないスケーターたちが、その手のひらで踊らされていることに気づか無いまま巻き込まれていった。

 それが全ての起点。Sを舞台にしたドラマが幕を開けた。


「愛之介様」

「なんだ? 忠」

「トーナメントの件ですが」

「先日、こちらからの要望は一通り伝えているはずだが」

「はい。対戦相手の選定方法は、抽選でよろしいのでしょうか」

 愛之介はディスプレイからやっと視線を外し、振り向き鼻で笑った。

「無用な気遣いだ。僕のスノーは負けない」

 その自信はどこからくるのか。

 ビーフは何があるか分からない。一回負けたら終わりの勝ち抜き戦では、体調、故障、ちょっとしたコースの異変などさまざまな要因が絡み、スノーはもちろん愛抱夢ですら不測の事態という可能性もあるのだ。

 もしも、愛抱夢と戦う前にスノーが負けたら彼に興味を失い、次のイヴを探せばいいと考えているのだろうか。いや、それはないような気がした。彼は、スノーが確実に勝ち上がり自分と戦うと、恐ろしいほどの無邪気さで信じている。

 愛抱夢の精神は既にギリギリまで追い込まれている。どうであれ、スノーは最後のイヴ候補だ。

「しかし……」

「くどいぞ、忠」

「申し訳ありません。余計なことでした」

 ふんと鼻を鳴らした愛之介は、もう一度ディスプレイに視線を戻した。

 分割されたパネル全てはスノーで埋め尽くされている。ドローンを使い、ありとあらゆるアングルから撮影された彼の姿が映し出されていた。


 美しい少年だ。

 だからこそ単純な恋慕であればいいと思っていた。彼に向けるものがスケートと関係のない恋愛感情であったのなら、どれだけ救われただろうか。自分も愛之介様も。それならいずれ醒める。余裕を持って見守っていられただろう。

 けれど、そんなものとは比較にならないほど愛之介が彼に向ける情動は重く深い。一方的に向ける狂おしいほどの思慕。それは底の見えない暗い淵へと沈んでいく歪んだ情熱だ。

 そんなものがハッピーエンドへ繋がるわけはない。破滅へと向かう絶望的な未来しか見えてこなかった。

 そこまで愛之介様にイヴを、スノーを求めさせてしまったのは、すべて自分のせいだ。

 いっそスケートなど教えなければよかった。そうすれば、もっと上流階級らしい趣味を持ち、スノーに出会うこともなかっただろう。

 もう手遅れだろうか。だとしても、このまま放置するよりずっといい。


 分割されたパネルが一つの大きなスクリーンとなり少年が大映しにされた。なんて楽しそうに滑るのだろう。直後、高く飛んだ少年に目を見張る。綺麗なエアだ。

 スノーの滑りは、自分が知るスケーターの誰よりも純粋で真摯だ。それでいて貪欲。この子はどれだけスケートを愛しているのだろうか。

 幼いころの記憶が不意に蘇る。そうだ、もうひとりこんな滑りを自分は知っている。

 ——見てろ、忠。えい!

 きつく目を閉じ記憶を強引に封じた。

「僕は……」

 その声に忠は目を開いた。

「戦えるって信じているんだ。だってランガくんは僕だけのイヴなんだから」

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