そこは優しくあたたかい

 クレイジーロックから神道家の屋敷へ向かう車中でのことだった。忠は主人から予定が何も入っていなければ、と前置きされたうえで、明日の午前中に神道邸まで足を運んで欲しいと頼まれた。少々手伝って欲しいことがある。詳細はそのとき話すと。本来その日は休日なのだが、この仕事をしているとこういったことは珍しくない。もっとも秘書の仕事とは関係ないという。


「彼におすすめの本ですか?」

「そうなんだ。昨晩Sでランガくんに相談された。あの子は日本語文の読解力に不安があって、現代国語以外の教科のテストも、設問文を理解することに時間がかかりつまづいてしまうそうなんだ。そこで教師から本を読むようすすめられたらしい」

「それでしたら順番として、まずあの暦という子に頼まなかったのでしょうか」

「赤毛くんか? もちろん最初に相談したそうなんだが、いきなりスケートの雑誌を持ってきたということで雑誌はだめだと言ったら漫画ばかり貸してくれたらしい。一応漫画は読んだそうだがあまり勉強にならないと。それで普通の簡単な本を、と言ったら妹の絵本を貸してくれて、ひらがなばかりでやはり参考にならなかったとか」

 あの子たちの将来に不安を感じるやりとりだ。大きなお世話だが。

「それと、チェリーとジョーとシャドウと実也にはもう相談済みだ。チェリーのおすすめ本は漢字だけで書かれていて歯が立たない。シャドウは花関連の本、ジョーは料理の本、実也は動物の本しかないと言われたということだ」

 スケーターってやつは、どうしてこう常識の足りない連中ばかりなのか。

「愛之介様に今のスノー向けの本の心当たりはございますか?」

「考えたのだけど、安岡正篤の『政治家と実践哲学』くらいしか思いつかなかった。彼にはまだ少し早いように思うんだよ」

 何を言っているんだ。少しどころか間違いなく未来永劫早い。今更ながら主人もスケーターなのだと思い知る。

「他には?」

「ない。それでお前に相談している。不本意だが」

「でしたら、なぜ引き受けてしまったのです?」

 安請け合い過ぎる。忠だってそんな心当たりがあるわけない。

「他ならぬランガくんから頼りにされたんだ。僕への相談が一番最後になったというのは少々気に入らないが、まあそれでも僕が最後の砦になったということだ。何よりこの僕に不可能なことなんてないからね」

「はあ」

 間抜けな声が漏れてしまった。あの決勝戦以降、どうも自制心が働きづらくなっている。もっとも主人は気に留めている様子はない。

「問題ない。どうにでもなるだろう」

 愛之介は何ごとにおいても強気で自信満々だ。傍から見れば根拠薄弱に見えるのだが大抵うまくことが運んでしまう。いつか痛い目に遭うのではないかという自分の心配をよそに悪運が強いと言うべきか一向にその気配はない。

「スノーとはいつまでに、という約束を?」

「これから来る。ついでなのでランチに招待した」

「え……?」

 読めてきた。ランガと一緒の時間を過ごす、が主人の目的で、今の彼に適した本を探す、が手段になっている。間違いなく彼の悩みを利用した策略だ。

 忠は上機嫌な主人の顔をチラリと見やる。ならば打つ手はある。

「ではこうしましょう。書庫でスノーと一緒に本を探します。しかしあの書庫にそんな本があるはずありません」

「どういうことだ?」

「探すポーズを見せるだけです。そのあと彼の好みを聞き出し通販で取り寄せる。でいかがでしょうか」

 愛之介はニヤリと満足げな笑みを浮かべた。

「妙案だ」

 話がまとまったそのタイミングで、使用人がランガの来訪を伝えてきた。


 ランチを終えた愛之介、忠、ランガの三人は神道家の書庫にいた。

 書庫内は使用人がまめに掃除をしてくれているおかげで埃っぽさもカビ臭さもない。微かに漂う紙のにおいが懐かしかった。

「こんなに本がたくさん」

 ランガは書庫内をぐるりと見回した。

「無駄に広い家だからね。収納には困らなくて、なんとなくとっておいてしまう。捨てるタイミングを逃してしまうからそれも考えものだ」

「ここで見つかるの?」

「どうかな。僕もここにどんな本があるのかよく覚えていないからね。一通り探してなかったらネット通販で注文すればいいさ。アドバイスはするよ」

「わかった」

 忠は二人のやりとりを聞きながら、適当に本棚から本を引き出してページを開いて確認するふりをして戻すという作業を繰り返した。探しているという演技だ。愛之介も同じような動作をはじめた。

 ランガはといえば所在無げな様子でキョロキョロしながら、同じように本の背に指をかけた。

「わっ!」

 ランガの声とバサッという音に忠と愛之介は振り向いた。

「ごめんなさい。手が滑って」

 ランガは落とした本を拾おうと、しゃがんで手を伸ばす。

「気にしなくていいよ。もともと捨ててもかまわない本ばかりなんだ」

「あれ?」落下の衝撃で開いたページを見てランガが素っ頓狂な声をあげた。

「この本変だけど。カバーと中が違っている」

 忠と愛之介が覗き込む。

 その挿絵ページには美少女のイラストが描かれていた。これは一昔前の、いわゆる萌え系の絵柄だ。カバーに印刷されているタイトルは『論語』とお堅いのだが。

「あ……」

 忠と愛之介が顔を見合わせた。二人同時に思い出していた。

「これは僕が失くしてしまって忠に返せなかった本だ」

 その本が落ちて空いたスペースに目を向ければ中国古典がずらりと並んでいる棚だった。まさかこんなところに紛れ込んでいたとは。

「懐かしいですね」


 あれは愛之介が中学に進級する前のことだったと記憶している。

「ねえ忠、僕に何か面白い本貸して」

 愛之介はプールの外へと着地しボードを蹴り上げ掴んだ。

「愛之介様が読まれる本は、お父様や伯母様がたが選んでいて、それ以外は禁止だと聞いていますが」

「そうだけどさぁ、つまらないんだよ。だから面白そうな本を僕に貸して欲しいんだ」

 愛之介は利発な子供だった。同年齢の普通な子なら理解できないだろう難解な書籍も難なく読み解いてしまう。でもそれは楽しんだり気晴らしをするための読書ではなかった。

「お貸しするのは構いませんが、バレたら大問題になるかと」

「大丈夫。表紙カバーだけ交換しておけばバレないから。あいつらどうせ中なんてチェックしないし」

「どのような本がよろしいのでしょうか。あまり愛之介様におすすめできるような本は……」

「忠の好きな本が読みたい。忠くらいの歳の人たちの間で人気のある本が知りたいんだ」

 忠が所有する中高校生に人気がある本を候補として頭の中で思い浮かべた。

「わかりました。今度何冊か持って参ります。ただ愛之介様に気に入っていただけるかどうか自信はありません」

「好みじゃなくても忠の責任にしたりしないよ。面白くなかったらまた次の本を探せばいい」

「そうですか。文庫サイズでよろしいでしょうか?」

「うん。僕も表紙を交換できそうな本を探しておく。なるべく難しそうなやつ」

 無邪気な共犯者たちは顔を見合わせクスリと笑った。愛之介と忠、二人がワクワクする秘密を共有した瞬間だった。


 ランガが顔を上げ、愛之介を見た。

「この本面白かった?」

「面白かったよ」

「愛抱夢はこの本、好きだった?」

「そうだね。何度も読み返した。大好きだったな」

 それは初めて聞く。

「俺、この本を読んでみるよ」

「ああ、でもこれはラノベと言って君の勉強になるかどうかは」

「らのべ?」

「うん、なんて説明すればいいのかな」

 なるほど、と忠は口を挟むことにした。

「案外、この本はおすすめかもしれません」

「どういうことだ? 忠」

「この作家はラノベでデビューしていますが、その後一般文芸に転向しています。その分、文章、構成におかしなところがなく、かつ読みやすい。今のスノーに最適だと考えられます」

「いや、それでも」

「愛抱夢が大好きだったという本なら俺も読みたい。だめ?」

 ランガは身を乗り出し真剣な表情で愛之介に訴えた。

 だめだなんて言えるわけがない。


 紅茶と焼き菓子を運ぼうとする使用人から、自分が持っていこうとワゴンを預かった。

 忠が部屋に入れば二人並んでソファーに座っていた。ランガは本を読み愛之介はまだ目を通せていない各種資料や報告書の束をめくっていた。ランガはわからない言葉を愛之介に訊き、その都度優しく丁寧に彼は答えていく。

 二人のやりとりは歳の離れた仲の良い兄弟のようにも見えて、微笑ましかった。

「紅茶と菓子をお持ちしました」

「ランガくん、一旦本を閉じて。休憩にしよう」

「はい」


 食器を下げようと部屋へ戻れば、ソファーに座ったまま愛之介にもたれ掛かりランガは目を閉じていた。

「おやつを食べたら眠くなってしまったらしい。そっとしておこう」

 小声で愛之介は言った。

 温暖な気候の土地とはいえ、冬である今は流石に肌寒い。

「毛布をお持ちしましょう」

「頼んだ」


 毛布を手にランガの睡眠を邪魔しないようドアを軽くノックする。

 返事がない。

 そっと開けたドアの隙間から室内を窺えば愛之介も目を閉じていた。

 足音を立てないよう慎重に近づいていく。二人とも瞼を開く気配はなかった。思ったより深い眠りに入っているのかもしれない。

 お互いにお互いの身体を預け支え合っているように見える。視線を落とせば、指と指を絡ませ手を繋いでいた。

 愛之介は日々激務に忙殺されている。疲労が溜まっていて当然だ。それでもいつ足を掬われるかわからない立場の彼が気を緩めることはない。表層的には、にこやかな笑顔を振り撒きながら常に緊張を強いられているのだ。安らげる時間など持てるはずもなく、ピンと張った糸はいつ切れるかわからない。そんな不安が常に付きまとっていた。

 一枚の毛布をふわりと掛けた。二人を包むように。それから穏やかに眠る主人の顔を忠はしばし見つめる。安らかな寝顔は子供のように見え忠は苦笑した。ふと、その中に幼い愛之介の面影を見つけてしまう。遠い日の記憶が静かに揺り起こされ胸が締め付けられた。

 それでも。

 主人に寄り添い無防備に眠る少年に視線を移した。

 今はこの子がいてくれる。

 胸にぼうっとやわらかな光が灯った。

 この部屋の空気は、こんなにも優しくあたたかい。

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