君がいるから
これは、もしかしたら神道愛之介の人生の中で過去最大級のピンチなのかもしれない。
この事態を招いたのは、間違いなく自分の初動ミスだ。グダグダの酔っ払いにこそならなかったものの、それでも確かに酔っていた。思考力、判断力が鈍る程度には。
党内若手国会議員有志による勉強会。その後、忘年会を兼ねて懇親会と称して軽い飲み会があった。
もともと議員としてのパーティ参加や飲み会をする時間があれば少しでも滑っていたい。愛之介の中での価値基準では飲みよりスケートが優先事項ではあるのだが、最低限の付き合いというものはある。
その夜、ランガと東京で会う約束をしていた。
寒いところで熱々の焼き芋を食べたい、という第三者からみれば「は?」な夢がランガにあった。沖縄に比べれば東京は凍えるほど寒いといえる。冬の東京で一緒に焼き芋を食べる計画を立てていた。なんとも可愛らしくも微笑ましい約束だ。沖縄に戻るスケジュールを調整し時間を捻出した。ランガは二泊三日のパッケージツアーを利用するという。その宿泊予定のホテルに愛之介もダブルルームを予約し、そこで落ち合うことにしていた。
それは前々から決めていたことだった。
ところが日程を組んでしまったあとに懇親会があるとの連絡がきた。ランガは「気にしないでいいよ。愛抱夢には付き合いというものがあるんでしょう? 俺、部屋で待っているから」と言ってくれた。ランガとのディナーを断念するしかなかったのは残念だったが翌日もある。
飲み会終了後ホテルに到着したのは二十二時過ぎていた。
エントランスに足を踏み入れてすぐにスマホを取り出した。寝ていなければいいのだが。
「愛抱夢?」眠たげな声が聞こえた。
「予定より遅くなってごめんね。寝ていた?」
「お疲れ様。シャワー浴びて、少しうとうとしていた」
「君の部屋はシングルだね」
「うん、狭いよ」
「広めの部屋をとっておいた。僕のルームナンバー先に決めてもらっているので送っておいた。貴重品だけ持って来てくれないかな」
「わかった」
彼への連絡後チェックインしたのだが、この気早さが最初のミスだった。アルコールのため慎重さが欠けていた。
薄暗い廊下でランガはニコッと笑って片手をあげた。自宅から持ってきただろうスウェットの上下を着て愛之介が指定した部屋の前に立っていた。
「やあ、お待たせ」
「そんな待っていないよ。愛抱夢、荷物ないんだね」
「週半分が東京なんだ。スーツケースなんて転がしていられないよ。議員宿舎に生活必需品は全て、着替えも一揃い用意してあるからね」
ドアが閉まると同時に彼を抱きしめ強引に唇を重ねた。彼は身を捩ってキスから逃れようとした。唇を離し顔を覗き込めば口をへの字に曲げ顔をしかめている。
「もう、アルコール臭いよ。結構お酒飲んだ?」
「ああ、悪かった。そこまでは飲んでいないつもりだったんだけどね」
「とりあえずコート脱いだら?」
「そうだね」
コートをハンガーにかけクローゼットにしまう。次にスーツのジャケットから袖を引き抜いた愛之介をじっと見てランガは眉を寄せた。
「なんだろう、いつもと違う」
「違うって?」
「愛抱夢ってさ、スーツのときいつもピシッとしているんだけど、なんていうんだろう。ヨレヨレしている? シャツも皺だらけで襟はズレているし。ネクタイも緩んでいる」
「飲み会だと色々からまれるしね。特に僕は最年少だからいじられやすいんだ」
ネクタイを吊るし、ワイシャツはランドリーバッグに放り込んだ。
スラックスを脱ごうと靴を脱ぎスリッパに履き替えようとしたとき「愛抱夢、足、どうしたの?」とランガは怪訝な表情で愛之介の足元をまじまじと見た。
しまった。失念していた。いくらアルコールが入っていたとはいえ、今の今まですっかり忘れていたとは。左右の足のうち、今現在ソックスを履いているのは右足だけなのだ。
飲み会程度で、ソックスを片方無くすなど異常事態にも程がある。頭の中が真っ白になった。浮気などと疑われたくない。この子を不安にさせたくない。それだけは避けたい。
「ランガくん、これはなんでもない。誤解しないでくれ!」
だがその刹那、とどめを刺された形になった。
「それにさっき気になったんだけどシャツに付いていた赤いアレってリップスティックだよね?」
慌ててランドリーバッグの中を覗いてみる。ギョッとした。赤い口紅が袖にベッタリと付着していた。ランガに指摘されるまで気がつかなかったとは。なんたる間抜け。失態。軽い飲酒であってもここまで注意力が散漫になるとは。アルコールとは実に恐ろしい。
「どういうことなの?」
「そ、それは、あやかちゃんが……」
我ながらあやかちゃんはないだろう、〈ちゃん〉は。自分の狼狽えっぷりに呆れる。
「Ayaka-chan? 女の人?」
「はい女性です。一年生議員の綾香議員です」
「さっきから口調が変だよ? いつもの愛抱夢らしくない。そんなに後ろめたいことでもあったの?」
「いえ、全くありません!」
動揺のあまり声が裏返ってしまった。
「やっぱり変だ。なんか誤魔化そうとしていない?」
ランガは唇を尖らせ、ぬっと顔を近づけてきた。
「誤魔化すなんて、そんな……浮気なんて断じてないよ」
自ら浮気などと口走ってどうする? そうだ、やましいところなどない。それでも悪い印象を持たれたくない一心で軽率な弁解を重ねている。それをすればするほど言動がおかしくなりランガの不審を煽ってしまっている。議員としての答弁でも陥りやすい罠だ。いや、議会でこの手のミスなんてしたことないのに、神道愛之介らしからぬこの体たらくだ。
「待ってよ。俺、浮気なんて疑っていないのに、どうしてそんなに慌てているの? もしかして本当は浮気した? とか考えて不安になっちゃうよ。ねえ、ちゃんと俺の目を見て」
ランガはじっと愛之介の瞳を覗き込んでくる。間接照明の仄明かりの中、冷たい湖面を想起させる澄んだ青が煌めいていた。適当にはぐらかそうとしていた自分を恥じいるべきだろう。
「……話して」
「わかった、最初からちゃんと説明する」
あの懇親会後に二次会まで付き合わされた。断ることが難しかったのだ。すぐに切り上げるつもりだったこともありランガに連絡しなくても大丈夫だろうと判断した。二次会にまで参加してしまったことをホテルでひとり待たせているランガに知られてしまうことは抵抗があったのだ。
二次会は貸切でカラオケスナックだった。一時間かそこらで失礼させてもらうつもりだったのだが、そこでとんでもないトラブルに見舞われた。あやかちゃんがらみの。
ちなみに綾香は名字だ。フルネームで綾香祥子なのだ。一年生議員といっても、それなりにキャリアを積んできたアラフォー女性で彼女の知見は興味深く、政治家という職業しか知らない愛之介に比べればはるかに人生経験豊富で数少ない尊敬できる人だった。
ではあるのだが、この女性一つ困ったところがあった。酒癖が悪いのだ。とんでもない問題行動こそは起こさないものの子供っぽい悪戯に周りは振り回される。
カラオケスナックで愛之介は綾香議員の隣の席だったのだが、酔っ払った彼女はいきなりテーブルの下に潜り込んだ。そこで何を思ったか……恐らく何も考えてはいなかっただろうがケラケラ笑いながら同席した人たちの靴を片っ端から脱がしはじめた。さらにソックスまで引き抜く始末だ。
最初、皆は口だけで制したが、一向にやめる気配がなかった。仕方なく隣の席だった愛之介が、彼女を引っ張り上げることになった。口紅はおそらくそのとき弾みでついたのだろう。
それから放り出されている靴やソックスから自分のものを見つけ出し履き直すことになった。ところがなぜか愛之介のソックスの片方だけが見つからなかった。テーブル、椅子と隈無く探したが出てこない。
ランガを待たせている。探す時間の方が勿体無い。ここからホテルまでタクシーだ。ソックスを履いていなくても凍傷を負うなんて心配はないだろう。
ランガに会える。そのことに頭がいっぱいで、片足は素足であることなどタクシーに乗り込んだ瞬間忘れていた。
我ながら浮かれ過ぎだ。
一通り説明し終えて愛之介は頭を下げ謝罪した。
「ランガくん、嫌な思いをさせてすまなかったね」
唖然としているというか、なんともいえない表情で聞いていたランガは首を横に振った。そしてホッとしたように笑った。
「大人って色々と大変なんだね」
「大変というより、バカで呆れただろう?」
「びっくりしただけ。俺にはまだわからないことだらけだ。でも隠そうとしないで最初からちゃんと話して欲しかったな。だって本当にどうってことのない話だったんだから」
「わかったよ。今回のことで僕も懲りた」
「ねえ、愛抱夢はさぁ、もう怯えなくていいから」
「怯える?」
「ごめん、日本語の使い方間違っていた?」
「いや……そうか。間違っていないよ。君の言う通り僕は怯えていたんだ」
「愛抱夢は、きっと俺には想像もできない複雑な大人の世界にいて、心を全部見せてはいけないところにいるのかなって思ったんだ。でも俺の前では無理しなくていいから。気にしなくていいから」
なるほどと思う。最初のミスは、ソックスを片方なくしていたことを失念していたこととアルコールで注意力散漫になりワイシャツに付着していた口紅に気がつかなかったことだと思っていた。それらのことに注視できていたら、真っ先に自分が部屋に入り体裁を整え、ランガを迎えることでなんの問題もなく取り繕うことができたのだ。
ランガがらみでなければ、狡猾な神道愛之介を難なく演じていただろう。
でも今は結果的にこれで良かったと思っている。ランガに対しては取り繕う必要など何もないのだ、ということを改めて思い知らされたのだから。
「俺、愛抱夢のこと全て話して欲しいとか知りたいってわけじゃないんだ。俺だって愛抱夢に何もかもを話しているわけじゃないし」
それは自分も同じだ。ランガの交友関係、特に親友とのやりとりをいちいち聞いてなどいないし詮索もしない。たとえドローンを駆使して盗撮しようが、ランガの全てを把握できるわけではない。まして彼の心まで映すことは不可能なのだ。それに今やその必要性も感じていない。
ランガの水色の髪をそっと撫でた。
こんなふうに指を伸ばせば触れることができる。この子はここに、こうしていてくれるのだから。これ以上何を望む必要があるのか。
「ありがとう、ランガくん。また君から一つ教わった。明日には必ず埋め合わせはするから許して欲しい。評判のいい焼き芋屋も見つけたんだ」
「許すも何も。愛抱夢はほんと大袈裟なんだから。それよりシャワー浴びてさっさと着替えたら?」
「そうだね。君は眠かったら先に寝ていて。ベッドはキングサイズだからふたりで寝ても余裕だよ」
「でも……」
「大丈夫。寝込みを襲ったりしないから」
「え?」
「おや? もしかして期待していた?」
ランガは、ふいっと目を逸らした。
「そういうことじゃない。だけどまだ寝ない。あなたとちゃんと話をしていないし、明日の予定も聞いていない……」
どこか拗ねたような口調だった。
「じゃあ、寝たりしないよう頑張って」
「俺、そんな子……」
子供じゃないと言いたかったんだろう。でもその言葉を遮ってバスルームのドアを閉めた。
焼き芋屋の調べはついている。明日は強く冷え込み雪がちらつくだろうとの予報だ。それは願ってもない天候でふたりのデートが祝福されているのだと思えた。なにしろ凍えるほど寒いところで熱々の焼き芋を食べる、というランガのささやかな憧れが現実のものになる。それは同時に最高の時間をふたりが共有することになるのだから。
「え? ソックス見つかったの?」
「ああ、見つかったというか、送られてきた」
この上なく楽しい思い出になった焼き芋イベントのあと、最初にランガと滑ったときのことだった。
「誰かが拾って届けてくれたの?」
「まあね」
速達で配達されてきた封書。ひっくり返してみれば、綾香祥子議員からだった。
内容は、先日の酔っ払い騒動の謝罪の手紙とともに、無くしたソックスの片方とお詫びらしき新品の同ブランドのソックスが同封されていた。
手紙によると、あの夜、綾香議員は片っ端から靴とソックスを脱がし、なぜか愛之介のソックスをスーツのポケットに入れていたとのことだった。それでは床をいくら探しても見つかるわけがない。
彼女は全く覚えていなかったという。テーブルの下に潜り込んだという記憶はうっすらとあったようだが。ポケットになぜ紳士物ソックスの片方だけが入っていたのか困惑し、その上そのソックスの持ち主もわからず途方に暮れていたらしい。が、あのテーブルで一緒だった人が愛之介のソックス片方が最後まで見つからなかったと教えてくれたということだった。
しばらく酒は控えます、と手紙は締めくくられていた。
「へえ、そうだったんだ。お酒って怖いね」
「節度を保って飲むことは難しいんだ」
「俺、二十歳になっても飲まないと決めた」
「それは賢い選択だよ。実際沖縄ですら若い層での飲酒量は減っている。お酒なんて百害あって一利なしだからね」
「悪いことしかないってことでしょう? それって煙草と一緒だね」
完全に藪蛇だった。喫煙本数は多いわけではないんだ。自室にいるときかSでしか吸うことはできないのだから、たまには吸わせて欲しい。もうこの話は引きずらない方がいいだろう。
「努力はしよう。さあ、もう一度滑ろうか」
手を差し出す。ランガは微笑み愛之介の手を取った。
了