君と見るオーロラ
あのとき心が死んでいたんだ。
誰と一緒にいても何を見ても心は弾まない。皆が感動するような絶景の中にいても魂が揺さぶられることはなかった。
俗世は、ひたすらくだらないだけで息をするのも辛い。
僕を受け入れてくれるのは虹色に輝く、あの世界だけだった。
「愛抱夢は、留学中カナダを旅行したことがあるって言っていたよね?」
ランガは手にしていたカナダ旅行のパンフレットを閉じサイドテーブルに置いた。懐かしくなったのだろう。代理店の店頭でもらってきたという。
「そうだね」
「じゃあさぁ、オーロラ見に行った? 観光客は結構行っている」
パンフレットの表紙には『オーロラ観測ツアー』と書かれていた。
「ああ、イエローナイフへ行ったよ」
イエローナイフ。観光客向けにオーロラビレッジが設置されていて誰でも気軽にオーロラを楽しめる。世界で最も安定してオーロラを観測できるところだ。三日滞在すればオーロラ鑑賞確率は95%以上だと言われている。もっとも肉眼ではっきり見えるオーロラではなく、なんとなく白い粉を空に撒いたみたいな、一般的なオーロライメージから程遠いものを含め95%以上だと主張しているので要注意だ。あの美しいオーロラが肉眼ではっきり確認できるかどうかは運次第ということになる。
「俺もさ、父さんに連れられて小さい頃行ったんだ。光のカーテンみたいでとても綺麗だと子供心に思った。日本語で言うと、すごく幻想的? それでもレベル4だったらしい。愛抱夢はどうだった?」
濁りない青い虹彩を煌めかせ、彼の顔が迫ってくる。
「うん、まあ」
我ながら歯切れの悪い返事だった。
今でも映像として脳内に再生することなど造作もない。美しいはずなのに、あのとき何故だろう……ただ揺らめく光のカーテンを無感情に眺めていただけだった。なんの感慨もなく。
黙り込んだままの愛之介にランガは眉を寄せ怪訝な顔をした。じーっと顔を覗き込んでくる。
「もしかしてオーロラ見えても、あまり綺麗に見えなかったとか?」
ああ、そっちね、と作り笑いを浮かべた。
「見えたことは見えたんだけど、現地ガイドの説明ではレベル2とか3くらいで、あまり観測条件は良くなかったらしい。タイミングが悪かったんだ。仕方ない。一週間も二週間も滞在できるわけなかったから」
これは嘘だ。当日は最高であるレベル5のオーロラだった。皆さんは本当にラッキーだ、とガイドが興奮していたくらいの。もちろんランガはそんなこと気づくことはないだろう。
「運が悪かったんだね。……じゃあさあ、もう一度オーロラを見に行こうよ。今度は俺と一緒に」
思いがけない提案に軽く目を見開いた。
「君と一緒にかい? それは素敵だ。いつか行こう」
「いつか、は嫌だ」
強い口調で言うと、彼は眉を寄せ口をキュッと結んだ。
「ん?」
「日本人が言ういつかは、その気がないから実現しないって聞いた。だから必ず俺と一緒に行くって、ちゃんと約束して」
真剣な面持ちで圧をかけてくる彼に、たじたじとなりながらも愛之介の口元が綻んだ。
「おや。そういうことを言うと、僕は本気で具体的な計画を立てちゃうよ。もう後戻りはできない。ランガくんの都合なんて考えない。何がなんでも拉致してでも君を連れて行くけど。それでいいの?」
「いいよ。愛抱夢が時間を作れるようになるまで俺、楽しみに待っているから」
微笑む彼の頭を抱き寄せ、水色の髪に唇を落とす。
「それでは決まりだな。さて、そろそろ休もうか。人生の楽しみが増えて今日は良い夢を見られそうだ」
スタンドライトの明かりを消した。
「もう、愛抱夢はほんと大袈裟」
クスクスと笑いながらランガは身を乗り出し、チュッと軽く唇を重ねてきた。
「おやすみなさい」
そのままゴソゴソとベッドに潜り込むと愛之介の肩に額を押し付けてきた。と、あっという間に寝息が聞こえてきて思わず苦笑する。
そして寄り添う恋人の心地よい体温に安らぎながら愛之介も、また目を閉じた。
夢を見た。
明かりが漏れるテントが建ち並んでいる。カナダ先住民が暮らしていたという居住施設ティピーをモデルにした待機場所だ。なるほど。ここはイエローナイフのオーロラビレッジか。
観光客たちの歓声が聞こえる。そこに、ぽつりとひとり佇む若い男の背中が見えた。すぐに、あれは昔の自分だと理解した。次の瞬間、彼の視点が自分の視点へと切り替わっていた。
夜空全体にわたって激しく揺れ動く光のカーテン。何も感じない。あのときと同じだ。とても美しいはずなのに心が動かされることは、やはりない。ただ網膜に映り込んでいただけだった。今でも心は死んだままなのか。
不意に腕を掴まれ視線を落とす。水色の髪が唇に触れた。
ランガくん?
「ほら、ちゃんと見ないともったいないよ」
彼は愛之介の腕にぎゅっと抱きつき、オーロラが広がる夜空を指差した。
言われてもう一度、天空を仰いだ。これはレベル5の、愛之介の脳裏に刻まれた光景だ。あのとき確かに見た記憶のままのオーロラだ。
「わあ、すごいね」
ランガは無邪気にはしゃぐ。
光のカーテンが暗い空全体に広がりピンク、青、緑と激しく踊り狂っているようだった。なんて美しくも壮大で神秘的なのだろう。心が強く揺さぶられ、その刹那、目から涙が溢れた。あのとき失くしていた感情を一気に取り戻そうとするかのように涙が頬を伝う。
これは夢だ。だから泣いても恥ずかしいと思う必要はない。そう自らに言い聞かせ、愛之介は夢の中で涙を流し続けた。
了