桜を愛でる、君を愛でる

1.花の雨

 沖縄の桜は一月から二月に開花し、各地で桜祭りが開催される。

 内地では桜といえば薄紅色のソメイヨシノのことだが、沖縄で桜といえば濃いピンクのカンヒザクラを指す。ソメイヨシノはここ沖縄に植えたとしても花開くことはない。


 ランガは市内で開催された桜祭りに赤毛たちと行ったときのことを話してくれた。エイサーのステージや屋台など、カナダではお目にかかれないイベントはもの珍しく、存分に楽しんだようだった。友人たちとのひとときを屈託なく報告してくれる彼の嬉々とした様子に、それでもなんとか大人の対応ができたと思う。穏やかではない心の内を余裕の笑みで覆い隠して。

 嫉妬するようなエピソードがあったわけではない。ただ、自分も彼とふたりで花見をしたかった。いや、そうではない。桜の中にたたずむランガをこの目で見て、ただ愛でたかった。ささやかにそう願っただけなのだ。

 そこではたと気づく。

 ん? 待てよ。ならばチャンスはある。関東地方の桜はまだ先だ。三月末から四月にかけて開花する。そこへ彼を誘い花見をすれば済む話だ。

 そうと決まれば、花見スポットの選定だ。

 愛之介は、過去に訪れたことのある桜の名所を思い浮かべた。名所というだけあって多くの花見客が押寄せていたことを思い出す。

 人目につくところは避けたほうが無難だ。ならばどこに決めればいい?

 さらに記憶を手繰り、やがて思い出す。そうだ。あそこのあの桜だ。あれがいい。


 愛之介は計画通りランガを旅行に連れ出していた。

 そこは東京からさほど離れておらず、渋滞に巻き込まれたりしなければ車で二時間かからず辿り着くはずの近場だったが、スケジュールの調整がうまくいかず目的地である貸別荘へ到着したときには、辺り一帯すっかり暗くなっていた。

 ふたりを送り届けた忠は近くのホテルに宿泊し、明日迎えにくることになっている。

 その貸別荘に決めたのは、周囲に野生の桜が自生するからだった。前に宿泊したときは、桜が目的だったわけではなかったのだが、一般的なソメイヨシノとは違う、ここの清楚な桜が強く印象に残っていた。

 その桜の花色は純白。白い花と瑞々しい新緑の葉を同時に観賞できる。かといって、ソメイヨシノのような華やかさは感じさせない。そのおかげか、この桜の下で花見をしようなどというもの好きは、いない。

 そんなわけで誰かに邪魔をされる心配はないだろう。静かにふたりだけの世界を堪能できる。


 今年は例年になく桜の開花が早かった。すでに散りはじめの際どいタイミングだったことがわかる。

 満月の明るい光を浴び、ランガは目を輝かせ頭上の桜を仰いだ。見れば花びらが彼の周りをはらはらと舞いながら落ちていく。

 そのとき、一陣の風がふたりの間を吹き抜けていった。白い花びらが一斉に散っていく。ざわざわと梢や葉が擦れる音がした。

 ランガは振り向き、吹きつける風に乱される髪を手で押さえ、微笑んだ。

「すごいね。まるで雪、吹雪みたいだ」

「もちろん。桜吹雪というくらいだからね。沖縄の桜は品種が違うから、こんなふうに花びらがひとひらずつ散ったりしなかっただろう? だからこの桜を君に見せたかった。まあカナダにも日本から寄贈された桜があったかな」

「あるけど、花びらが雪みたいに見えるなんて知らなかったよ。それと夜に桜を見るのも初めてだ。花は明るいうちに見るものだから」

 ランガはもう一度、首を背後に反らし桜を見ている。

 無数の花びらが、満月の透明な光を受け銀色にキラキラと煌めきながらランガに振り注いでいた。ランガは空中に舞う花びらに触れようとするかのように手のひらを上に向け腕を掲げ、ヒラヒラと振っている。同時に薄闇の中で青を失くした彼の髪が雪色に耀 かがよっていた。

 その姿は、綺麗なんて言葉では表現できない。ふと浮かんだ言葉が清らかだった。

 そうだ、白い桜の花言葉は『純潔』。

 強引に連れてきた甲斐があったというものだと愛之介は目を細め、その幻想的な風情にしばし見惚れていた。

 不意に、漠然とした不安を覚えた。

 白くきめ細かい、どこか無機質に見える肌と相俟って、彼はあまりにも美しく儚げで、この月明かりの中に霧散してしまうのではないか。そんな妄想に囚われた。

「ランガくん」

 思わず駆け寄り指を伸ばす。

 大きく目を見開き振り向いたランガの頬に触れた瞬間、確かな肌の質感と温度を感じ、ホッと胸を撫で下ろした。そして彼のうなじを手のひらで支え、髪に付着している何枚もの白い花びらを指で丁寧に摘み取っていく。

 そんな愛之介を捉えた青い瞳が、何度も不思議そうに瞬いた。

「どうかした?」

「いや、君が消えてしまうのではないかと。急に怖くなった」

 ランガは眉を寄せ唇を曲げた。

「何を言っているの? 消えるなんて、そんなことできるわけないだろう。俺、忍者じゃないんだから」

 ランガらしいピント外れな一言に、安堵の息を吐いた。そうだった。彼はそんな柔な子ではない。温かい血が流れている生身の人間なのだ。自分のばかばかしい想像力に自嘲する。

 ふと感じた頬を掠める風の冷たさに、急激な気温の降下を知る。夜気は湿気を帯びてきているようだった。夜空を見上げれば薄雲が広がっているようで、星々は見えない。明るく輝いていた満月も、ぼんやりとした朧月となって柔らかい光を放っていた。

 夜半から早朝にかけて雨になるとの予報が出ていたことを思い出す。低気圧が近づいているのだ。関東地方でも山沿いは、みぞれ混じりの雨になるかもしれないと言っていた。

「花の雨になりそうだな」と、彼に聞かせようとしたわけでもない言葉をぽつりと漏らす。それを聞いてランガは手のひらで落ちてくる花びらを受け、握りしめ怪訝な顔で首を傾げた。

「花びらが? 今度は雪ではなくて雨って、解けるの?」

「あ、そういう意味じゃない。花の雨とは、ちょうど桜が咲くころに降る、文字通り雨のことだよ」

「日本語難しい」

「少しずつ覚えていこう」

 愛之介は目尻を下げ、ランガの頭を撫でた。そのとき、また冷たい風が吹きつける。

 ランガは自分を抱きしめるように両二の腕を掴むと、ぶるりと震えた。

 愛之介はランガの肩に手を回し胸に抱き寄せた。彼の背中に手のひらを滑らせ確認してみるが冷たい。沖縄感覚で薄いシャツ一枚では無理がある。これでは流石に寒いだろう。そのまま温めるように、ぎゅっと抱きしめた。

「身体が冷え冷えだ。明日の朝はもっと冷え込むだろうね。ジャケットはちゃんと持ってきた?」

「一応。ほんと、こんなに気温が違うとは思わなかった。沖縄に慣れると、こっちは肌寒く感じるね。それでもカナダに比べれば暖かいはずなんだけど。不思議だ」

「君の身体が少しずつ沖縄仕様になっているんだよ。人間って結構順応力があるからね」

「あなたも母さんと同じことを言う」

「そろそろ中に入ろうか」

「わかった。明日、明るいところでも桜を見ることができる?」

「どうかな。雨の予報が出ているから、難しいかもね」

「そう、残念」

 ランガは名残惜しそうに仰向いて桜を見た。風が吹くたびに、花びらは飛ばされ空中を漂っている。

「でも、明日の朝には——そうだな、雪原を見られるかもしれない」

 言いながら、彼の輪郭を手のひらで包み顔を近づけていく。ランガは「何それ?」と目を丸くし、それでも瞼を閉じ愛之介の口づけを受け止めた。

 間もなく雨が降り出すだろう。天気予報では、明け方にかけて雨脚が強まっていくという。その雨粒に叩かれ、桜の花は明日まで保たない。そして、明朝になれば、青空の下で地面に敷き詰められた真っ白な絨毯を眺めることができるだろう。

 そう、白い雪原のような。

2.桜餅を頬張る君を見る

 夜半から雨脚が強まり夜明けまで降り続いた雨も上がり、梢の間から覗く空は青い。そして桜の木の下には一面の白い花びらが絨毯のように敷き詰められていた。当然、花はほぼ散ってしまっている。

「起きて。ランガくん」

 シャッとカーテンを引けば、さっと朝日が差し込んだ。

「うっ……眩……しい」

 掠れた声に振り向き、ベッドに目をやればランガは腕で目を覆っている。

「そりゃ朝だからね。それより雨がうるさかったけどちゃんと眠れた?」

「雨? そんなにうるさかった?」

 目を擦りながら上半身を起こそうとする彼の背中を抱き支えた。

「目が覚めなかったのならよかったよ。では朝食にするけど食べられそう? ケータリングを頼んである。そろそろ届く時間だ」

「うん、お腹空いているみたい」

 ぼーっとした様子で、それでも胃の辺りに手を当てている。

 なんとか支度を終えたランガとテーブルを囲む。朝食のメニューは、クロワッサンとフランスパン。近くの牧場のミルクでつくられたヨーグルト。地元産の野菜を使ったサラダ。トマトのコンポート。ハムとソーセージ。地卵のトリュフ入りオムレツ。野菜スープ。フレッシュジュース、紅茶とコーヒー。

「おいしそう」

 そう言ってランガは、テーブルに並べられた料理に口をつけ、黙々と食べていく。目の焦点がどうも合っていないように見える。

「どう?」

「うん眠い」

 まだ寝ぼけているのか、と愛之介は内心頭を抱えた。まあ、そういうところも彼らしくかわいいとは思うのだが。

「そういうことではなくて、料理は口に合う?」

「ん? あ、とても。このオムレツ……俺がつくるのと全然違う。中がトロトロしているし。どうやったらこんなふうにつくれるんだろう? パンは焼きたて? サラダも新鮮」

 一応それなりに味わってはいるらしかった。

「それは何より」

 綺麗に食べ終えたころランガは、やっと目が覚めたようだった。

 食後の紅茶を飲みながら「とてもおいしかった」とすっきりとした笑顔を見せた。

 それから窓の外を眺め、すっかり散ってしまった桜を残念がり、庭にぎっしり敷き詰められた白い花びらの絨毯を見て「愛抱夢の言ったとおりだね。Snow field!」と振り向き目を輝かせた。

「さて、特別なデザートを用意してあるけど、食べられる? ランガくんは食べたことあるかな?」

「何?」

「桜餅。桜の香りがするんだ」

 菓子皿に乗せた桜餅と緑茶を彼と自分の前に置いた。

「桜? 初めて見る」

「食べたことなかったんだね。沖縄の和菓子屋でも売っているし大して珍しいものではなけどね。一年中普通に作れるはずなのに、なぜかこの桜が咲くシーズンだけ売られたりするんだ。だから沖縄では1月から、せいぜい3月くらいまでかな」

「食べていい?」

「どうぞ。他にも桜風味の焼き菓子詰め合わせもあるけど、君のお母さんへのお土産に用意したものだから、あとでふたりで食べて」

 ランガは桜餅を鼻を近づけ、あれ? と言いたげな表情になった。

「このにおい、昨晩桜を見ながら嗅いだにおいと似ているね。もっと弱いにおいだったけど」

「この和菓子は、桜の葉の塩漬けを巻いて、香りを移してあるんだ。花のにおいは、また少し違うとは思うけど方向性は同じ」

「この葉っぱは取るの? 食べていいの?」

「好みかな。お店は食べないで、と言っていたから、最初は剥がして食べてみて」

 彼はうなずき桜餅から葉を剥がして、ポイッと口に放り込んだ。小振の桜餅とはいえ一口とは。

 もぐもぐ、ごくんと呑み込むと「おいしい」とお茶を口に流し込んでいる

「もっと食べる? まだあるよ」

 青い瞳をキラキラさせ、コクコクと首を縦に振って「食べる!」と身を乗り出す彼に、これは本当に昨晩のランガと同一人物か? と少々頭が痛くなる。

 桜吹雪の中での幻想的な、あの情景が脳裏に再現された。

 月の光を受け銀色に煌めく花びらが降り注ぐ中、頬も髪も唇ですら、暖色と呼べるような色彩の一切を失い、ただ青みがかった薄闇の中に溶け出していた。

 その風情はヒトのカタチをしたヒトならざるもの。汚れとはほど遠い、いや誰も触れることすら叶わぬ浮世離れした存在に見えた。消えてしまうのではないか。そんな馬鹿馬鹿しい妄想に囚われ、彼の肌感と体温を確認しなければいられなかった。

 それが、今やどうだ。

 正面に座るランガは完全に目が据わっている。目の前にある桜餅に夢中だ。今のこの子の脳内は桜餅一色なのだろう。

 愛之介は目を細め、ふふふ……と唇の端を持ち上げた。

「何を笑っているの?」

「いや、そうやって桜餅を頬張るランガくんも、実にラブリーだと思ってね」

「何それ」とランガは眉根を寄せ唇を尖らせた。

 そういった拗ねた顔も、またラブリーだと思うけど、それを言ったら流石に君は怒るだろうか。

 愛之介は上機嫌の笑顔で、一つだけ残った桜餅をランガにすすめた。

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