温度差があるキス
Sで帰り支度をしているとき、暦がためらいがちに言った。
「あいつ、お前に対してスキンシップ過剰じゃね？」
言われてランガは首を傾げた。
「あいつって？」
「決まっているだろ。愛抱夢だよ。他に誰がいるんだよ。肩抱いたり腰に手をまわしたり手を握ったりとか」
「暦だって同じだろ？ まだ親しくなる前から俺に抱きついてきたり肩組んできたりしてた」
「あれは親しみを込めてだなぁ。こっちでは普通だし」
「こっちって？ 母さんが日本人はシャイだからハグしたりしないって言っていたけど。暦だけが例外なんだと思っていた」
「で、でもなんか違うんだよ。あいつのは。こう、いやらしいというか」
「いやらしい？ 愛抱夢のハグもキスも父さんとするみたいだよ」
「キ、キス？」暦の声が裏返った。
いけない。ハグはともかく、人目につくところでキスなんてしたことないのに。
暦は押し黙ったのち、小声でぶつぶつ言い出した。
「あ、いや、あっちではチューは挨拶だったか。ランガはカナダ育ちだし、あいつはアメリカに住んでいたことがあったって聞いたし。イタリアで修行していたジョーなんて人目を憚らず普通に恋人でもない美女とキスしているしな。父さんとするみたいって言っているんだから特別な関係では……」
勝手に納得しているけど、キスが挨拶って誤解というか偏見なんだと思う。ゼロじゃないけど普通ハグ止まりだ。キスが挨拶はむしろヨーロッパの文化だ。それだって唇と唇はない。ヨーロッパからの客人が挨拶でチークキスをしようとすると多くのカナダ人は戸惑う。ジョーはイタリア関係なくジョーの文化だとしか言いようがない。
もっともセカンダリースクールあたりから、悪ふざけで男同士でキスをするというのは一時流行った。ただの受け狙いだし周りの笑いを取ろうという目的は、日本でいうところの芸人と同じだ。キスしたふたりが爆笑するまでが一連の流れだ。
特に親しい友人なんていなかったランガは笑うでもなくぼんやりとそんなクラスメイトたちを眺めていた。
いずれにしろ唇と唇のキスで挨拶なんて聞かない。
「ねえ暦、挨拶のキスって唇と唇でするわけじゃないよ」少なくても、それだけは訂正しておかないと。
暦はホッとした顔で「だ、だよな」と言った。
暦には俺と愛抱夢のことで心配かけちゃっているのかな。暦が考えているようなことは何もないんだけど、これからは周りの目を少しは気にしないと。ランガはそう思った。
愛抱夢は、ふたりきりでいるとよくキスしていいかと訊いてくる。特に断る理由もなかったから、訊かれるたびに「いいよ」と返事をしていた。
額、髪、目尻、頬、大体キスをしてくるのはそのあたりだ。
そっと優しく触れてくるところは父さんと同じだ。だからか、肌を掠める吐息のくすぐったさは、すごく懐かしく、密着した体から伝わるぬくもりは穏やかで泣きたい気分になる。
たまに「唇にしていいかな？」と訊いてくる。そんなときの愛抱夢はいたずらっ子のように見えた。もちろん本気じゃないってわかっているから「駄目」と言う。
そのときの彼はすぐに「冗談だよ」と笑い、ハグしながら額とか髪にキスをしてくれる。
俺がうんと小さかったころ、父さんは唇へもキスをしてくれた。チュッと小さな音を立てながら軽く一瞬触れるだけのキス。日本ではそんな習慣なかったからと母さんとはあまりキスしなかったけど、父さんが俺にキスをするのをニコニコ笑って見ていた。
もちろんプライマリースクール入学前の話だ。
親から子供へされる唇と唇のキス。それは子供がまだ幼児であるまでのごく短い間だけだ。
幼かったときの遠い記憶の中にあるキスの感触が唇に蘇る。愛抱夢と唇と唇でキスしたらどんな感じだろう。父さんのキスと同じなのだろうか。
ランガは唇を指でなぞり、少しドキドキする胸に手を当てた。そして、あることに気がついた。
そういえば愛抱夢は、なんで俺にキスをしたがるんだろう？
今の今まで考えたこともなかった。
愛抱夢から不定期に入るバイトは時給がよく断る理由はなかった。DOPE SKETCHでのシフトを調整してもらい、なるべく受けるようにしている。暦には話しているけど相手の正体が愛抱夢であることは伝えていない。それもバイトの条件だ。暦も追及はしてこない。ただ英語を使うバイトだという理解でいるのだと思う。
その夜、ランガは臨時のバイトという名目で、愛抱夢の表の顔である愛之介の部屋にいた。彼は事務所から戻ってきたばかりだ。
愛抱夢はスーツのジャケット脱ぐとソファーの背もたれへ無造作に放った。ランガはそのジャケットをハンガーに掛けた。彼は「ありがとう」と言い、グラスの水を口に運びながらパラパラと書類を眺め始めた。
顔色が良くないように見えた。疲労の色は隠せていない。
今は部屋でふたりきりだから愛抱夢呼びで構わない。
「愛抱夢、タバコ吸いたいんじゃない？ 俺戻るから」
「そういうときは言うから、気を使わなくていいよ。むしろ君にはもう少しここにいて欲しい」
「疲れているね」
「疲労困憊ってやつかな。大人は神経すり減らすこと多いんだよ。特に政治家稼業なんて碌なものじゃないからね」
大人は大変だと思う。Sのスケーター愛抱夢と政治家である神道愛之介の印象は随分と違う。それは愛抱夢だけではない。シャドウ、ジョー、チェリーと大人たちは皆それなりに真っ当な社会生活を営んでいて、表の顔と裏のSでの顔を使い分けている。
違わないのはランガや暦や実也の学生組くらいだ。
「何か俺にできることある？」
顔を上げた愛抱夢がニコッと笑った。
「心配してくれるのかな？ なら君にキスをしたい」そう言いながらソファーから立ち上がり、両腕を広げ歩み寄ってくる。
「いいけど、一つ教えて。あなたはどうして俺にキスしたがるの？」
彼の目が丸くなり、軽く吹き出して「今更？」と言った。
「急に気になって」
「君を抱きしめキスすると僕が癒されるからだよ」
「前に実也が言っていた。疲れたときにふわふわの犬や猫を抱くと癒されるって。俺も犬や猫と同じってこと？」
愛抱夢は「ふふふ」と笑った。
「君は面白いこと言うね。ある意味当たっているよ。でも僕は犬や猫じゃ癒されない。ランガくんでなければ駄目なんだ」
俺は犬や猫みたいにふわふわじゃないと言いかけたが黙っていた。多分そういうことではない。
「それより僕は、今まで君がなぜキスを拒否しなかったのかをずっと考えていたんだ。挨拶だというのは、おかしいよね。どうして？」
どうして？
最初は断る理由がなかったから。そのあとは、自分もキスされるのは嫌じゃなかった、むしろ好きだったからだと思う。
理由は暦に話した通りだ。
——愛抱夢のハグもキスも父さんとするみたいだよ。
「愛抱夢のキスが」と言いかけたが、続く言葉は唇にぐいっと押しつけられた彼の人差し指に遮られた。
「ああ愚問だったよ。僕はもう答えを知っているんだ。それを君の口から聞かされたくない。だから答えなくていい。その代わりにこれを訊いておこうか。君はなぜ唇へのキスは拒否したの？」
言いながら愛抱夢はすっと前へ出た。ランガは思わず後ろへ一歩退いた。
「え？ それは冗談かと思って」
「僕はいつでも本気だったよ」
「あなたは冗談だよって」
「本気でお願いしているのに、あっさり断られたなんて恥ずかしいからね。後出しで冗談ということにして誤魔化しただけなんだけどな。君は本当に鈍感だね」
鈍感と言われ少しムッとする。でも最近色々な人から指摘されるから、そうなんだろうと思い始めている。
また愛抱夢が一歩近づく。そうやって彼が距離を詰めればランガは後退りする。そんなことを何度か繰り返した。やがて背にあたる壁の硬い感触が、これ以上逃げられないことを教えた。
「行き止まりだよ、ランガくん」
深紅の瞳が真っ直ぐランガを射抜いた。目を逸らすこともできない。
ランガは胸を手で押さえた。どうしたんだろうトクントクンと鳴る心臓がうるさい。愛抱夢とスケートをしているわけではないのに。
頬に指が触れるのを感じてランガはピクリと震えた。
「怯えているのかな。僕が怖い？」
今まで愛抱夢を怖いと思ったことは一度もなかった。皆が恐怖だという彼の暴力的なビーフだって、ランガにとってスリリングで最高のワクワクでしかない。
だけど、こんな愛抱夢をランガは知らない。
気がつけば「怖い」という言葉がランガの口から漏れていた。
愛抱夢は目を細めて笑った。
「嬉しいなぁ」
それは本当に嬉しくて仕方ないといった顔だった。
「嬉しいの？」
「だって君は今までまったく気がついていなかったからね。自分が親愛だけではなく性愛の対象としても僕から見られていたことに。そして今ようやくそのことに意識が向いたんだ。その未知の僕を君は怖いと感じた」
そんなこと、考えたこともなかった。俺は今までこの人の何を見てきたのだろう。
愛抱夢はランガの唇を指でゆっくりとなぞった。
「決めたよ。僕は君の唇にキスをする。嫌だったら逃げていいよ。君なら簡単だろう？ ああ、それと君が拒否したからといって、アルバイトが無くなるとか、僕が君に冷たくなるとか、そんなことは心配しなくていいからね。そう、色々なことが少しだけ先延ばしになるだけさ」
ゆっくりと愛抱夢の顔が近づいてくる。
逃げる？ どうして？ 逃げる理由を考える。真っ白だ。何も見つけられなかった。
チュッというリップ音とほぼ同時に、唇がさらっと触れ、すぐに離れた。
「これは君が知っているキスだね」
そうだ、この感じ。昔、父さんがしてくれたキスだ。
ランガはコクリと頷いた。
腰にまわされた手にグイッと引き寄せられる。顎を掴まれ至近距離で見つめてくる赤い瞳。ますます速く激しくなっていく心臓の鼓動にランガは困惑した。
どうしよう愛抱夢に聞こえてしまったら。
「では、いいかな？ 次は君の知らないキスだよ」
唇に温かい吐息がかかり、熱と湿り気を帯びた唇が重なった。ランガは男の背中に腕をまわしシャツを強く掴んだ。
徐々に深くなっていく口づけ。やがてランガはがくりと膝を折った。そのまま愛抱夢に弱々しく縋りながら崩れ落ちていく。そんなランガを男はしっかりと腕に抱き留めながら、ふたり揃って床にペタリと座り込んだ。
愛抱夢はランガの耳元で囁いた。
「最初はこのくらいにしておこうか。君の反応は初々しくて可愛いね」
可愛いと言われるのは少し面白くなかったけれど、文句を言う余裕なんて残っていない。
ランガは力の入らない体を男に預けたまま、彼の腕の中で苦しげな呼吸を繰り返すことしかできなかった。
今だったら、この人に何をされても受け入れてしまうだろう。そんな気がした。
男の胸に頬を押し付ける。ほのかな体臭と煙草のにおいを感じランガは目を閉じた。
了