とある勝負の夜に
新月の暗い夜、神道家のプールにウィールの振動音が響いていた。
ガーデンライトの柔らかい光を浴び、ふわりと宙を飛ぶ少年に見惚れる。彼は休むことなく滑り続けていた。放っておけば一時間でも二時間でも延々と滑り続けてしまうだろう。いい加減声をかけることにする。
「ランガくん、少し休憩して水分を補給しよう」
「わかった」
プールの外へと軽やかに着地したランガはボードを蹴り上げ掴むと、愛之介の隣に腰をおろし差し出したボトルを受け取った。
水で喉を潤しながら取り止めもない雑談をする。ランガ周辺についてはなるべく把握しておきたい。彼の交友関係を中心に、さりげなく聞き出していた。そのことに若干の後ろめたさはあるが許容範囲だろう。もともと口数の多い子ではない。それでも、こうして話をしてくれるのは、心を開いてくれている証だと思えた。
もっとも赤毛の親友絡みの話題がほとんどなのだが。
「前に、暦の家族が海でのバーベキューに誘ってくれたんだ。そのときに初めて手で持つ花火をしたんだけど、アニメで見たのと同じだって思った。暦も暦の妹たちも、すごくはしゃいで盛り上がったんだ」
楽しかった記憶を反芻しているのだろう。幸せそうな笑顔を見せつけてくれる。少しばかり妬けるかもしれない。
「手持ち花火は初めてだったんだね」
手で持つ花火は日本の文化だ。
「うん。カナダではプロが打ち上げる花火のイベントはあるんだけど。日本はどこでも花火が売っていて、誰でも子供でも一年中好きなところで花火ができるのすごい」
花火に関する規制は国によって違う。アメリカでも州によっては制限ないところから全面禁止のところまである。
「カナダは花火の規制はあるの?」
「州ごとに違うけど、日本と違って厳しいよ。できるのはハロウィーンのときくらいで買えるのもハロウィーンまでの1週間くらい。海や公共の場での花火は禁止。しかも打ち上げるのばかりで、手で持つタイプはあるのかな? 買うのに年齢制限あるしで、やる機会はなかったな」
カナダ育ちの彼には、日本ではありふれた花火も新鮮に映るのは無理もない。
そこで、ふと思い出す。デスクの引き出しに、いただきものの花火が長いこと放置されていることを。ちょうどいい機会だ。
「ランガくん、少し待っていて」
部屋へ花火を取りに走った。
まだ開封されていない花火の箱を探し出し、水を入れた小さなバケツと一緒にプールへ戻った。
「それは何?」
「花火」
「買ったの?」
「ギフトとして貰ったものだよ。これは日本製の手作りで貴重なものだからって」
包装紙の中から桐箱が現れる。子供向けの玩具花火とは違う高級感溢れるパッケージだ。桐箱の蓋を開ければ、蝋燭と和紙で作られた線香花火が上品に収まっていた。
「これが花火? 日本っぽくて綺麗だけど小さい。暦たちとやった花火はもっと長くて大きかったしカラフルだったよ。打ち上げ花火もあったし」
「君が赤毛くんたちと遊んだ花火は多分中国製だ。日本製はコストの面で中国に敵わない。贅沢品と言えるね。これは線香花火という日本の伝統花火で、派手さはないけれど繊細で趣があるよ」
「これ火をつけていいの? こんなに綺麗なのに」
確かに、草木染め和紙で包まれた線香花火は風情がある。燃やしてしまうのは忍びないと思ってしまうのは無理もない。
「火をつけなければ花火にならないよ。こういった手作りの花火、僕も初めてで興味はあったのだけど、これひとりでやってもつまらないだろう?」
「ならスネークとやればいいのに」
悪気なく言っているらしいが、勘弁してほしい。
「それでは仕事の延長になってしまうからね。僕も忠も気分転換にならないよ」
「お互い気にしすぎじゃない? 普段からもっと仲良くすればいいのに」
サラッと言ってくれる。君からの願いは出来る限り叶えたいとは思うのだが、それは難しい。大人のしがらみというやつがあるんだ。
気を取り直して、一応説明書を読もうと懐中電灯の光を当てた。
驚いた。子供の頃、学校関連のイベントとかで何の気なしに花火で遊んできたが、線香花火を長持ちさせるコツが細かく解説されていた。斜め四十五度で火をつけ最後までその角度を保つか。
蝋燭に火を灯し、プールを照らすガーデンライトを消した。
線香花火を一本抜き取ってランガに手渡し、花火を持つ彼の手に自分の手を添えた。
「さあ、ここを持って。この蝋燭で火をつけてね。そのまま最後まで、この角度を保って」
「うん」
先端に火を付ければ、小さな溶岩のような火球ができる。
「動かすとその丸い球が落ちて、火が消えるから気をつけて」
「これ、すごく神経を使わないといけない花火? 暦は妹と一緒に花火振り回して怒られていたけど、火は消えなかった」
丸い朱玉からパチッパチッと火花がはじけはじめる。やがて四方八方に勢いよく火花が飛び散りパチパチパチと爆ぜる音が響いた。
「へえ」目を丸くしたランガの端正な横顔を線香花火の瞬く光が浮かび上がらせていた。
火薬が爆ぜる音が少しずつ柔らかくなり、勢いが弱まった火花は花びらがはらはらと散っていくように、線となって地面に落ちていく。
最後にジュッという音と共に、火球は光を失った。
ランガは顔を上げ、愛之介に視線を移した。
「消えちゃった。揺らしたから?」
「大丈夫。ちゃんと最後まで燃え切ったよ」
「よかった」
「それで、赤毛くんとやった花火と比べてどう? 感想は?」
「不思議な感じがした」
「どんなふうに?」
ランガは何かを考えるように首を捻った。
「暦たちとやった花火は、賑やかで明るくて楽しくて、ワクワクする」
「興奮するってことだね」
「きっとそう。なのに、これは静かだ。見ていると気持ちが穏やかになる。リラックスするっていうのかな」
「僕も同じことを感じたよ。気分が落ち着き癒されるんだ」
「あなたも?」
「赤毛くんとやった花火とこの線香花火、君はどちらが好みかな?」
「どっちも好きだよ。でもそうだな、暦たちとやる花火は賑やかで楽しい方がいいし、あなたとやるのなら、こっちの花火を一緒にやりたい。地味だけどいつまでも、えーと、なんて言うのかな、残る?」
「ああ、それを余韻って言うんだよ」
「よいん?」
「線香花火で受けた印象を胸に、いつまでもそのイメージに浸っているんだ。そんな感じかな」
「日本語、また一つ覚えた」
「僕は君の余韻に浸っていたいな」
ランガの腰を抱き、ぐいっと引き寄せた。
「何それ」肩にかかる重みに振り向いた。寄り掛かりシャツに顔を埋めた彼の、絹糸のような柔らかい髪が唇に触れた。くすぐったい。
ランガは、最初から触れるだけなら簡単だった。警戒心の欠如、ただの鈍感ということもあるのだろう。それでも、こうして自然にスキンシップを返してくれるようになったのは、いつからだろうか。
一線を越えさせてしまうのは既に容易いこと、となっているのかもしれない。
そうであるとしても、引き換えに何を失うのか、もう少し思い見る必要がある。
ふわふわとした雪を思わせる水色の髪を撫で、そっと息を吹きかけキスをする。
「さて、もう一回だけ、線香花火に火を付けようか」
「うん!」
「今度は僕もやろう。どちらが長持ちさせられるか勝負だ」
「俺、負けない」
ランガは頭を持ち上げ、キリッと強気に宣言した。
どうやら彼のおかしな闘争心に火を付けてしまったらしい。受けて立とう。
「僕も負ける気はないよ」
こうして、『線香花火、どちらが長持ちさせられるか一番勝負』の火蓋が切られた。
了